『あれ? なんだこのメール…暗号?』



 受け取ったメールに答えを出したマスターからの返信を携えて、ケンジは電脳世界へと飛び立った。数々のコミュニティや施設が横目に流れて、ユーモラスなデザインの管理棟が眼下を通過した。どんどんと人気の無い方向へと進んでいく。
 返信アドレスに示された<住所>に従って進行方向を決定しながら、ぼんやりとここに至るまでを回想する。
「マ、マスター! 大丈夫でした!?」
『ちょっと怖いけど、凄い人だったね。屋敷も凄いし。武家屋敷なんて初めてだよ。君もでしょ?』
「ああもう、なんであなたはそんなに呑気なんですか!? だって、あれ、恋人の代役って!」
『…………言わないで。俺も聞いてなかったよぉぉぉ』
(がっくりと項垂れいたっけ)
 ケンジ、と。
 気さくな人達でよかったね、と耳打ちしてくれたけれど。
(マスター、…疲れていたな)
 幾ら先輩の婚約者役だからといって、簡単に馴染めるわけがない。そう、驚いたことにナツキさんのマスターの恋人のふりをすることが、マスターが引き受けた本当の依頼だった。バイトはバイトで続行中だが、それでマスターの気苦労が減ったかというと、多分逆だ。
 温かい場所だと言っていた。疲れた様相でそう言って、力なく口の端を持ち上げて微笑みかけるのを、見て心配していた胸中を、きっとマスターは知らない。と思う。
(あの人は、慣れてないから)
 戸惑っていた。疲労していた。彼は大勢の人の温かさに慣れていない。だからこそマスターは、類い希な集中力で、大好物の暗号に飛びついたのだろう。他人の場所で、自分のフィールドに出逢ったから。
 温かい場所で、大勢の人がいるのに、たった一人で数学と向き合っていたのだ。
 いつだったか、あの人が話してくれた。夜空に浮かぶ月の周回には、数学が大きく関係しているんだよ、と。世界は数学で満ちている。それがあの人の信念であり、ロマンだった。虫の飛び立つ羽音も朝顔の開花速度も夜の長さも静寂さも自分の存在も、マスターにとってはすべからく数学だ。
 徐々にスピードを落として、地面に降り立つ。とん、と足先に固い感触がした。見渡せば辺り一面見事に真っ白で、少し驚いた。何もないのは施設も出先機関もコミュニティもないためだ。  返信アドレスの所在地はこの辺りだ。普段の生活ではあまり訪れることのない区域は、その他大勢のアバターにとってもきっと同様だ。要は誰も立ち寄らないような区画だったものの、特にケンジは気に掛けない。OZのセキュリティは世界一安全なので、つまりOZに住む正規アバターである彼の安全は保証されている。基本常識だ。
(帰ったらどうしようかな、明日の朝にはマスターは馴染めているだろうか。子供達にふり回されないといいけど、)
 ぼんやり考えながら生来の遠慮がちな足取りで進んでいたケンジは、眼に入ったものに足を止める。
 数字が幾重にも重なって正体が読めなくなってしまったような、ぐしゃぐしゃした『生き物』がそこにいた。所々黒い線が飛び出しては、数字も形も刻々と変化している。
 変わったデザインだ。この方の持ち主は、佐久間さんと同じようなグラフィックを得意分野とするタイプなのかもしれない。そう推測させるような、不定形で独特の姿形を持った『生き物』が、ケンジが手紙を届けるべき相手らしかった。
「こんばんは」
〈回答、持ッテキタ カ〉
 音声情報ではないので、どのような声の持ち主なのかはわからないが、意思疎通に問題はないので頷く。
「はい、マスターからメールを預かってきました」
〈アリ ガ…トウ〉
「もしかして、この問題はあなたが作ったんですか?」
〈ソウダ〉
「凄いですね」
 メールを渡して尋ねたケンジは、感心して頷いた。あのマスターを夢中にさせた最難関レベルの暗号を作ったとは。
 好奇心を覗かせる瞳で見つめながら、
「それにしても、ああ、ご気分を悪くされないでほしいのですが、その姿は変わっていますね。こんなユニークなデザインの方は初めて見ました。あなたのマスターが設計を?」
〈私ニますたーはイナイ〉
 尋ねた疑問への返答に、そんな筈はない、と耳を揺らした。はぐれAIでもない限り、AI搭載型アバターには、現実で彼等を使う人間がいるはずだ。
「ええと、あなたを形づくった人のことですよ?」
〈開発者ナラ イル〉
「開発者? ならカスタマイズAIなんですね。そうです、その方があなたのマスターです。あなたは、生まれたばかりなんですか?」
 通俗的な慣習とは言え、OZでマスターという単語の差す意味を知らないという。生まれたばかりなのだろうかとケンジが問うと、『それ』はゆらゆらと煙のように揺れて「…ソウカ、モ シレナイ」と言った。
<ミッション>
「え?」
<らぶましーんハ 生マレタ。 理由、ミッション ヲ 遂行スル>
 唐突な言葉に眼を白黒させながら、ラブマシーンさん、と口中で繰り返す。それが名前なのだろうか。
「あの、あなたは」
<オ前ノ ますたー 間違イ。 ミッション カラ少しズレル。 シカシ範疇内 合格>
 不可解な発言よりも、聞き捨てならない単語が聞こえた。
「間違い?」
<最後ノ一文字ガ 違ウ>
「ええええ」
 ぎょっとするケンジに、ラブマシーンと名乗(らなか)ったAIは、体内から文字を取り出してざかざかと英文を宙に描いた。その下に色を変えて英文が浮かぶ。両者を比較してケンジは「あっ」と声を上げた。英文の最後、eであるべき部分がqになっていた。
 一文字間違っていると告げられて、ケンジはがっくりした。構わない調子で、『それ』は続ける。 <ケンジノますたーハ 何処ノ研究機関ノ人間ダ?>
「え?」
 思いがけない質問に取り敢えず気を取り直して答える。
「マスターは個人ですよ」
<ソノ筈ハナイ。他の返信者ハ皆 研究機関ダッタ>
 個人には解けない、と。
 間髪入れず否定されて、ケンジはやや誇らしげに答える。
「それは、なんと言ってもマスターのことですから。あの方は、数学に関しては天才的なんですよ」
<テンサイ>
 文字が浮かんで、そうです、と頷く。小磯健二は紛うことなく天才だ。
「数学がマスターの生き甲斐で、存在意義だとおっしゃっていました。数学的問題を解くことが、マスターの存在を形作るんです。数学を取り込んで、確かなものにしていくんですよ」
 それは凄いことだとケンジは思う。世界を数学で意味づけて、それと関わり続けていくということは。ケンジには手の届かない煩雑な現実世界では、きっと大きな困難を伴う。為したことが、彼の存在を定義し続けているなら。
「…だから、僕はマスターを尊敬しているんです」
 そう締めくくって、笑顔を浮かべ相手を見遣る。それはゆらゆらと揺れる。煙のように。形無きモノの思案に沈黙が落ちる。その間に進行している異変に、ケンジは気付かない。
<Q>
 暫く沈黙していた相手は、ふっと文字を吐き出した。
<違ウ。q。Q。クエスチョン。疑問。質疑応答。私ハダレ。らぶましーん。ワカラナイ。ケンジ、オ前ハ何物ダ?為ス事ガ何者カヲ決メル。私ハミッションヲ与エラレタAI。私ハ為サネバナラナイ。何者ダ?知リタイ。知リタイ。ケンジ、オ前ハ何者ダ!>
 無機質にうねる奔流にケンジのAIが警鐘を鳴らす。底冷えする胸。無いはずの血の気がひく感覚がした。
 数字が伸びたように見えた。重なった数字が上下左右に何処までも伸びていく。口を開けたように広がった数字と線は、小さなケンジの視界を全て埋めた。がんがんがんがん、警鐘が打ち鳴らされる。
 だがもう遅い。足は動かない。視界は占められた。
 ぱくり。
 ――マスター!
 悲鳴も挙げられないまま、ケンジの意識は泥のように絡め取られていく。全身が真っ黒い何かに包まれる感触が、最後に残った。何が起こったのかも判らないまま、彼の感情は沈み込む。