・特殊オチ
・原作の空気を読まないエンドです
・原作ラブケンのイメージを崩したくない方はバックプリーズ
何処か真っ暗な場所。ケンジは気付くとその中にいた。真っ先に気付いたのは足の感触。地を踏みしめて歩いている。脚、身体、腕、頭。感覚を追っていく。輪郭を思い描き形を意識して、そうしてすとんと納得が落ちてきた。
(そういうこと)
足の裏には固い感触はなかった。
やわらかい暗闇には快も不快もない。暑いも寒いも湿っぽいもない。感触らしい感触はなにもなかった。
辺りは真っ暗闇だが、ケンジにはここがどういう場所なのか、なんとなく解っていた。視界の利かないぬばたまの中に置かれても足取りに淀みはないし、後方を伺えば、
(――ほら、)
自分のほかに、斜め後ろから馴染んだ気配が付いてくる。
暫く歩くと、進行方向に小さな光点が見えてくる。
ケンジは足を止めた。
――ここまでか。
色々なものを残してきた。マスター。笑顔。彼をサポートするのが自分の仕事だったはずだ。それでも今、ケンジの心を司る機構に揺らぎはなかった。後悔していなかったのだ。
ケンジは後ろを見た。暗闇の中にくっきり浮かび上がって、ラブマシーンの姿がある。闇の中でも互いの姿が見えるのは不思議だったが、気にせず小さく名を呼び掛けると、ラブマシーンは小さく頷いてケンジの隣に並んだ。
ケンジもまた頷いて、光点に向けて歩みを再開する。
彼は教えてくれないが、きっと誰でも良かったのだろうと思う。形を貸すのは、決してケンジにしか出来ない役目ではなかった。この広いOZで、回答を届けたという接点は、必要条件ではあっても必要十分条件を満たしていない。ケンジが選ばれたのは偶然だった。なんの作為もなく、彼の隣にいるのが、他でもない自分だったという奇跡。
偶然の巡り合わせを必然と呼ぼうとケンジは決めた。
彼自身もプログラマーの手に掛かって解体され、同化していたケンジも粉々に砕け散ったが、後悔はしていない。訳も分からないまま強引に手を引かれた始まりだったけど、最期には自分の意志だった。
求めて求められた、その幸福だけを噛み締めて、ここまで来たのだ。
(きっと運命だった)
彼は色々酷いこと、取り返しが付かないことだってしてきたけど。
振り返っても、騒乱の場所には戻れない。経年は壊れたテープレコーダーのようなもので、録音済みのテープを巻き戻して上書きすることは出来ない。生命の循環はそれとしては円を描いて続いているけれど、一見始まりに戻るような運動は、見た目に反して時の流れをせき止めることは出来ないのだ。そういった大きなものを運命と呼ぶのだと、知識を集める過程で知った。哲学書か何かの記述だったと思う。一方で、必然を指して運命と呼ぶこともあるのだという。人間の作り出した観念は多義的で難しいが、もしそうだとしたら、ケンジの運命は――。
(それにしても、視界が効くのは不可思議だな)
両の掌を上にして眺める。一切周囲が覗えない暗闇の中で、自分の姿ははっきり見える。横を見れば、わかっていたことだがラブマシーンの姿も鮮やかだ。
「真っ暗なのにあなたの姿が見えるのは、不思議ですね」
「私にも、お前が見える。一体なんなんだ、この空間は……構造はどうなっているんだ」
「人知を超えた空間なんでしょう。考えたとて詮無いことです」
「……ケンジ、お前は解っているのか」
「ええ、おそらく」
あなただって、察しているでしょう? 言外に述べるケンジの胸に、恒星のように輝く真実が閃く。
『運命とは、――今隣に在るもの』
デリートされた後までこうして隣にいるのがその証拠だ。
いつの間にか光は大きくなっている。ケンジはここまで早く歩いていない。暗闇を光が浸食しているのだ。
光の淵で足を止めた。もうこれ以上は巻き戻せない。
厳然たる事実を前にして、ケンジは隣の人を見上げた。彼もこちらをじっと見おろしている。無機質な瞳の奥が揺らいでいた。
ケンジは顔の向きを戻した。滲む視界をゆるりと閉ざす。
(ラブマシーンさん、)
「ラブマシーンさん」
(怖いですか)
「怖いですか」
(怖いのは僕だ)
「僕も怖いです。でも――」
(もう元には戻れない)
(そして、あなたと一緒なら怖くない)
どちらも本心だった。
続く言葉を途切れさせ苦しげに見据えるケンジを深い眼差しで捉えていたラブマシーンは、ふと視線を緩める。一つ頷いて、ケンジが伸ばした手を取った。
ここで記憶はなくなるだろう。
次に出会えるかも分からない。
それでも手を取ってくれたことが嬉しくて、涙に滲む視界をぎゅっと瞑る。
そうして見開いた視界の先、待ち受ける真っ白い光の中に、二人は手を携えて飛び込んだ。
まず焼き尽くされたのは視界だった。
続いて手足が、衣服が、胴が、頭部が。光に焼き尽くされちりぢりになっていく。
暴風域のような乱暴な光の中で、錐揉み状に吹き飛ばされた身体は、嵐に舞う木の葉のように記憶ごと崩された。
引き千切られる自我が悲鳴を挙げる。食い尽くされる。浸食される。痛みに啼く声は風音になって溶けていく。
幾つものイメージが乱舞する。カラフルな光景の遥かな先に、ケンジは青みがかった澄んだ物体を見た。針だった。壊れ物の針は、毀れた運命に従って規則正しく時を刻む。進める。先へ。自我も葛藤も選択も過去に押し流して、手の届かない未来へと。
(それでも)
世界が出来て何年経っただろう、無限に続く時の回廊に囚われる生を、待ち合わせできないかもしれない、足踏み揃えて次のステージには進めないだろう、
でも、
そんなことを誰が決めた、
(辿り着く先が希望でないなどと、誰に言えるのでしょう)
マスターが暗号を解き明かしたように、
ひとり部屋で数学に向き合っていた少年が、受け入れてくれる大家族に辿り着いたように、
母親を亡くしたひねくれものの未来の工学者が、もう一人の偉大な母との人生を生きたように、
「出逢いましょう、必ず」
未練も全て抱えたまま信じて次へ進んでいこう。それが約束されない世界へと繋がるならば。
――必ず。待っている。ケンジ。
顔も奪われなくしたケンジは微笑んで、それが最期の希望(ことば)となった。
白い光が、全てを焼き尽くす。
――かつて、ある一つの自我だった光の塊は暗闇に送り出されて、身体を丸めて目覚めの時を待つ。
光の先へ続くある可能性の話
じりじりと響く目覚ましの音が、夢を破った。
眠たそうに目を擦って騒音と化していた目覚ましを止めた少年は、文字盤を目にするなり跳ね起きて、瞬く早さで制服に着替えると部屋を飛び出した。
弾丸の勢いで階段を下りたところで、リビングの入口から、新聞を広げてのたくさとトーストを頬張る父の姿を認める。素通りしかけた足に急ブレーキをかけ、少年は声を張り上げた。
「お父さん! 行ってきますっ」
「おはよう。いい天気だね」
微笑んだ父は、息子の様子を見て目を瞠る。視線が向かっているのは教科書の大きさに均等に薄く押し広げられた鞄だった。
「あっ。ちょっと待っていて」
リビングの掛け時計に目を遣り足踏みする少年に、一旦キッチンに消えた父は、生来の鈍い動作でもたもたと包みを差し出した。
「忘れ物だよ?」
「あ! お弁当っ、父さんありがとっじゃっ」
行ってらっしゃい気をつけて、と穏やかな声を背に受けて玄関を開け放つ。慌ただしい背中を、父親はペンとノートを手に見送って、脳味噌の体操をすべく日課のパズルに取り掛かった。
少年は駆ける。始業時間に間に合うバスはもう出ていないから、脚に賭ける――走るしかないだろう。
通学路であり近道でもある人通りの多い商店街の右端を走る。
(ああ、間に合うかな……あれ?)
今、何かに気を惹かれた。第六感にも似た感覚に、既視感を覚えた少年はなんの引っかかりもなく咄嗟に振り向く。
「――え?」
ある光景を目にした少年は、一切の動きを止めた。
怒濤の勢いで感情が溢れ出す。様々な光景。
違う。これは、記憶だ。
目まぐるしく数多の記憶が、感情とともに流れ出して少年の容量をいっぱいにする。
爆発的な歓喜と悲哀と驚愕と、さまざまな感情を混ぜ合わせた少年は目を伏せ、人の流れに逆らうようにゆらりと歩き出す。
「あの、……ちょっとよろしいですか?」
自分が住む街の、とある街角で少年は声を掛ける。
呼び掛けられたその人は高い視線の位置から見下ろして、首を傾げた。肩に垂らした長い耳飾りが揺れる。
「私に、か? 何か御用だろうか」
「はい。いえ、そうでもないのかな。ただ、あなたが昔大事だった人に似ていたから。……ああ、すみません。僕は、」
これこれこういう学校の、こういうものです。
名乗って頭を下げ、挨拶を交わす。
「そう、か。残念だが覚えていないんだが、……もしや、どこかで会ったことがあるか?」
「……ええ。ずっと昔に」
『初めまして』の再会だと、きっとあなたは知らないのだろう。
(それでいい)
自分は覚えている。ラブマシーンと出会ってからの全部の記憶を抱えてここまで持ってきた。
(僕の中に全部ある)
――だから、それでいい。
名前も種族も容姿も性別も記憶も世界も違えて、それでも出逢えたから。
簡単なことだった。
時を超えても忘れたくない想いがあっただけだ。
それだけで、どこまでも飛び越えていける。どこまででもこの心は駆けていける。
(それが、僕のたった一夏の記憶。命を燃やした恋だった)
見つめ合う二人の間に沈黙が落ちた、その数瞬後。
雑踏がざわめく道端で発した、躊躇うようにか細く問う声が、波紋を広げて溶ける。
「……ケンジ?」
遠い記憶の中の名前を呼ばれて、少年は泣き笑いの顔をした。
【光の先へ続くある可能性の話】八月一日無料配布でした。