▼小ネタ投下。
▼チャットから派生ネタ(ロミ/オとシンデ/レラ@にこ動でかずにょけん)
▼健二さんが甘い物好きな設定。他にも色々捏造注意。



甘い夢に墜落



 丸い卓を物入れから引っ張り出して白いレースのテーブルクロスを掛ける。四角いクロスの外周にはささやかに赤いのばらの刺繍。びろうどを張った古い椅子に腰掛けて、手ずから淹れた紅茶を注ぐ。
シフォンケーキにたっぷりの生クリームを添えた、繊細に整えられた贅沢品は小花模様の小皿に鎮座している。銀色に光るフォークでぶっすりと刺して口に運んで、広がる甘さを堪能する。完璧。お母さんは料理らしい料理はしないのにどうしてお菓子の腕は完璧なのだろう。
 昔から手料理と言えば甘い物ばかり食べてきた。だからだろうか、数学を言語に置き換えようとするとついオカシな比喩が浮かんでくるのは。
 数字は星の煌めきで、素数は爽やかなタブレット。微分は繊細なシフォンのカケラで、概数はフルーツ沢山のマフィン、ツェラーは一緒に身を装って、定理の奏でるダンスを踊る。数列はケーキ屋のディスプレイ、大小自在に移動するクッキー、とびきりパンチの効いたトランプマン、風味豊かなカカオマスは帽子屋おすすめのお茶請けで、カリッと歯応えアーモンドはとろけるチョコレートを存分にからめる。アーモンドは数字。チョコレートは法則。僕は数学の世界で彷徨うアリス。
 身を切られるほどの正確さで構築された世界で、巧緻な配列を追いかけながら、ふわんと淡い夢を見ている。厳格と夢は交じり合わず、隣り合って併存している。厳格の裏に甘い夢。甘さの裏に冷徹さ。正反対なのに矛盾はなく、数字と言語は乖離して一つのイメージを構築する。
 峻厳で精密な理論に、リリカルを持ち込んでるなぁとこぼしたら、佐久間に「お前も日本語使ってるなぁ」と詠嘆された。どういう意味だよと問い質せば「文学的表現使ってるってことさ」と返された。その後に「意外と少女趣味」と付け足されたことだけは余計だ。
 お母さんは台所に立つけれど、少女趣味ではなかった。甘い匂いは砂糖やバニラのそれを除けば、きつく鼻を突く合成化合物、香水の匂いしか知らない。彼女の素の匂いがどんなものだったのか、もう忘れてしまった。夏希先輩からは石けんの匂いがする。僕の身体からは紙とインキと数字の匂いしかしない。
 巻き髪。レース。エプロン。少女趣味からはほど遠い。僕が使う物と言えばエプロンくらいだけど、お母さんが使っていたフリルの柄物は所有者の手で燃えるゴミの日に捨ててしまっていたな。現在食器棚のフックに掛かっているのは飾り気のない、僕のギャルソンタイプのエプロンだ。お母さんはお菓子作りが得意だけど、食事の支度をしているところは見た事がない。料理をしたくないのだろうか。
 きっとお母さんは、家庭に縛られたくなかった。そんなお母さんは今夜もどこかで男の人とベッドで戯れているのだろうか?
 それとも仕事かな、部下の男性と泊まりがけではあるけれど、と無粋で迷惑な当て推量する僕の隣には佳主馬くんがいる。これまで上の空で展開していた思考は現実逃避でしかなく、言うなれば覚悟を決めるための猶予である。
(ただし――)
「佳主馬くん、僕可笑しいのかなぁ」
「健二さんが?なんで」
「数字は星で、素数はタブレットで、ツェラーと手を取って定理で踊るんだよ。ふわふわと夢の世界で戯れるみたいに。数学が厳正な理論で、そっけなくて、冷たくて、寄り添うように対峙する時ぞくぞくするほど興奮するのに、その裏でお菓子みたいな甘い夢を見てるんだ」
 隣に横たわる浅黒い肌の体温にかすかな陶酔を感じながら、天井に視線を固定する。おかしなことを言っている。自覚はあるけれど、台詞も勿論重要だけど、肝心なのはそれではなくて。
 首を横に向けると、彼はじっと僕を観察していた。どきりとする。
(そう、これは――)
「どっちも?」
「どっちも。同時に」
「そっか……なら」
 佳主馬くんはちょっと考えて、僕の目を覗き込むようにして言った。
「健二さんにとって甘い夢がお菓子なら、数学は食事なんだろうね。体内に取り込まないと生きていけないけど、それだけじゃなくて嗜好品の甘さも見出してる。だから生存を賭けて戦う裏で、甘いんだと思う」
 佳主馬くんは、切れ長の眼を苦笑の形に細めて頭を撫でる。
 そうなんだ、と頷きながら慎重に台詞を練った。
 これは猶予だ。決定的行動までの僅かなる悪足掻き。愛情に基づいた現実逃避。だから罠に掛けるわけじゃない、と何にかもわからず言い訳して動機を落ち着かせると、おもむろに尋ねた。
「デザートとメインディッシュを同時に食すってこと?」
「うん、そう」
 そうなんだ。
 目を伏せ、胸の中で唱える。君のためだった。覚悟が決まらない佳主馬くんのために、猶予を設けた。けれどそれももう限界で、たった今終了時刻を迎えた。
 池沢佳主馬は、肯定した。
 僕は瞼と持ち上げて、しかと前を見据えた。体勢を変えて、彼の身体を跨ぐように手を突く。
「健二さん?」
「佳主馬くんにとっては?」
「え、?」
「佳主馬くんにとって、僕は食事? それとも甘いデザート?」
「そんな、比喩だろ」
 動揺して逃げを打つ彼を、もう逃そうとは思わない。それを明確に伝えるために、敢えて中学生である彼の言葉を無視した。大きな日に焼けた手を、やや強引に掴む。
「なんて。どっちでもいいけど」
「健二さん!」
 彼は悲鳴を挙げた。
 彼の掌を、ささやかな胸の膨らみに押し付けたからだ。黒いレースのブラとショーツは思い切って買ったここ一番の勝負服で、似合っている自信は一切ない。
 けど、佳主馬くんがこっそり伝手を頼んだAVが黒ビキニの子が主役のシリーズだったって、手広く取り扱ってる佐久間に教えて貰ったんだよね。
 佐久間は昔から無修正の動画を落としては学校の男子に手配して、人脈と同時に相手の弱みも手に入れていた。佳主馬くんは知らなかったんだろう。佐久間が親友の僕にだけはあっさりと情報を漏らしてくれるということを。さもなければ普通は恋人の親友にAVの購入を代行させたりしない。
 甘いレースもきわどいシルエットも、本当はお菓子と違って興味ないよ、と囁きを落とす。
「でも、」
 耳に吹き込むと、おののいて僕を見た。収縮した瞳孔に思い詰めた顔をした自分が映り込んでいる。
「君がなかなか踏み切らないから」
 びくりと震える手を下へとゆっくり滑らせて最後は太股に押し当てる。手首を握る僕の手も震えている。彼も僕もまだ十代で早過ぎやしないだろうか、と懸念が過ぎったが、両親のことを思い出して大丈夫だと納得した。父も母も欲張って違う相手とよろしくしてるじゃないか。
 ありとあらゆる物が厳格な数字だけで合理的に構築されていたなら、こんな思いはせずに済んだ。
 家で唯一の古ぼけたびろうどの椅子。パイプ製のペッドに横たわる二つの若い身体。世の中はまったくもって機能的でない物で溢れかえっている。でも機能的になりきれないからこそ愛が欲しい。
 君と出逢って、それを知らしめられた。
「二人してベッドに下着姿で転がってるっていうのに、手を出さないなんてあんまりじゃない?」
 僕だって欲張ったっていい筈だと、他ならぬ佳主馬くんが欲しいと、震える唇を意地でこじ開け訴える言葉を落とし、胸板に手を這わせた。
 驚愕に強張る佳主馬くんの眼を見つめて、僕はパンドラの蓋を開く。怯えていることを悟らせてはならない。
 この恋は甘い夢。苦い恋なんて嫌い。そう思わせて、僕を喰らって。
「全部みせてあげる。だから、」

「僕のこと食べてよ」

 そして君の全部をみせて。囁いて、背中に回される腕を感じながら目を閉じる。
 あとは、甘い闇に沈むだけだ。