01.

 ピッ ピッ ピッ ポーン
『午後十一時です。OZにログインしますか?』


「健二さん、最近付き合い悪いよね」
 巨大共有仮想空間OZのロゴがデザインされた鍵穴を潜り抜けると、白い広大な空間がどこまでも続いている。上空にはアバターが集まる無数のエリア、通称コミュニティ。それを抜けた先にある土星の輪状に軒を連ねる各種サービスへの入口。通称本棚。輪の中心には猫を模したユーモラスなデザインの管理棟が、でんと構えている。
「ええっ、そんなことないよ」
「そんなことある」
 上空に浮かぶ数々のテクスチャの下方、ログイン状態のアバターが二体会話している。足下にはOMCのロゴマーク。周囲に他のアバターの姿は見えない。
 二人――アバターのユーザー達はオズマーシャルアーツチャンピオンシップの完全予約制練習スペースを利用してチャットしていた。
 白い長身のウサギ型アバターを見上げる黄色いリスは、焦った顔をしてぶんぶんと汗を飛ばす。
「忙しい? それとも……僕のこと嫌いになった?」
「そんな訳ない! 僕が佳主馬くんを嫌いになるなんて、ある筈ないだろ」
 躊躇った調子で問うウサギ――OMC歴代最強チャンピオン・キングカズマの言葉を、二・五頭身の不細工なリス――ケンジが強く否定する。
「……でも僕がキングカズマだから、一緒にいる健二さんが中傷されてる」
「それは、仕方ないよ」
 落ち込んだ様子で耳を下げていたカズマは、かっと肩を怒らせた。
「なんで! 全然関係のない連中に、意味もなく中傷されてるんだよ。おかしいだろ」
「みんな、佳主馬くんに憧れてるんだよ」
 ケンジは宥めるように言った。暫し沈黙が落ちる。
 二人の周囲はぐるりと白い壁で囲まれていた。キングカズマのユーザーである佳主馬が優先権を行使して押さえた練習スペースは、プライバシーのために完全に一般スペースから遮断されている。OMCチャンピオンともあろうものが個人的な訓練に使う建前で申請したのだから、当然の措置だ。
 「佳主馬くん」とリスが呼び掛ける。
「心配してくれてありがとう。ごめんね」
「なんで謝るの。……こっちこそ八つ当たりしてごめん」
「いいよ」
 即答。
 カズマはぴんっと嬉しそうに耳を立てる。OZの英雄でもある彼をここまで動かせるのは、数人の親族を除いてはケンジしかいない。
 だが、それでは何故ケンジはここの所付き合いが悪いのだろう――と疑問が再燃した様子で耳をそよがせる。
「でも、健二さん」
「うん?」
「最近なかなかOZに上がってこないよね」
 戻った話題にぴたりと動きを停止し、次いでわたわたと汗を掻くリスを、疑わしげに眺めるウサギ。
「それは、ほら、今なんか忙しくて。家のこととか物理部のこととか、やらなきゃならないことが山積みだし」
「ふーん。そんなもの?」
 あ、まずい。拗ねた。
 ふいっとそっぽを向く白いウサギに、わたわたと汗を散らしてリスが慌てる。
「あ、あの、佳主馬くん?」
「…………」
 ウサギは何も言わない。
「ええとさ、その、佳主馬くんを蔑ろにしてる訳じゃなくて、」
 短い腕を上げ下げするリスと腕組みして立つウサギ。言い逃れようと画策するブサリスを置き去りに、二体を取り囲む白い仮想空間OZは、今日も順風満帆に太平だった。
「…………(ふいっ)」
「佳主馬さーん! ええとそのごめんなさい調子に乗りました!」


「ごめんなさい調子に乗りました、謝りますから、どうか機嫌直して、っと」
 画面のこちら側で、線の細い高校生くらいの少年が、ぶつぶつと呟きながらキーを打ち込む。少年の周りには数学の参考書が散らばっていて、ベッドの上は数字でびっしり埋まった計算用紙が散乱している。
 画面上で返ってきた言葉を見て、淡く頬を緩ませる。
 機嫌を損ねたのはポーズだったらしく、「だったら言うこと聞いてくれる?」とキングカズマの頭上のポップに楽しげに文字が躍っている。踊る、と評したのはあくまで比喩だが、飾り気のない黒文字の向こうから佳主馬の機嫌の良さが伝わってくるようで、年下の友人の素直な反応に健二はほっと心を落ち着けた。
 カタカタカタ。
「僕に出来ることならなんでも、っと」
 床にも数学書が二三冊ごとに積み上げられている。その内の一冊を踏んづけそうになって、屈んで手でそっと退かす。英字で書かれた数学雑誌だった。
 リスの頭上に吹き出しが浮かぶ。
 佳主馬のささやかなお願いを了承して二言三言会話を交わしたところで、母に呼ばれた彼が短く謝って席を外した。
 打鍵の音が途絶えた。
 しん、と静寂が健二を押し包む。
 心なしか部屋全体が薄暗くなったようだ。人気のない他の部屋はもっと暗い。生活感のないリビング。冷たい廊下。無機質なキッチン。
 不意に秋風が窓から吹き込んで、百枚綴りのレポートパッドを煽る。パララララララッ……と初めから終わりまで捲られて音もなく閉じた。
 淡々とした表情を纏う健二の視線が、スクリーンから動く。佐久間に押しつけられた文化祭の企画書、デスク上の書類、本棚に乱雑に押し込まれたプリント類、床面積の半分を占める数学書。ゆるりと転じた眼差しは壁に掛けたカレンダーへ。赤い丸で囲んだ日付を視認した健二の目に、力が宿った。ゆるく拳が握られる。
 やらなくちゃ。
 用意された書類、何十冊もの参考書、決意を控えめに書き添えた日付。自室の其処此処に散乱している備品は全て健二が揃えた物だ。そうやって今まで時間を掛けて積み重ねてきた要素は、決断を迫られる土壇場で背中を押す。躊躇う理由ははじめからなかったが、既に決意は固めていた。
(佳主馬くんには悪いけど……)
 これからもOZに頻繁にログイン出来そうにない、と内心で呟いて、眼差しをカーテンの向こうへと転じる。
 寄せられたカーテンの奥は真っ暗と言っていい程だ。申し訳程度に宿った街頭が、かえって周囲の闇を深く押し退けがたいものに変質させている。
 夜の帳に押し包まれた下界には、アスファルトの道路が一本這っている。人影のない道路を見下ろす健二の顔が、半ばまでスライドされた窓ガラスに反射する。
 数え切れない程見てきた、ありふれた夜の風景。
 茫漠とした寂寥感が唐突に喉元まで込み上げて、健二はぼろりと溢した。
「……ひとりだ」



02.

 解放された生徒達の安堵で放課後の教室はざわめいている。
 佳主馬が荷物を手に席を立つとざわめきはぴたりと止む。固唾を呑んで見守るような息苦しい空気を悠々と突っ切り、一直線に後扉へ。がらがら、ぴしゃんと教室を後ろ手に出ると、板一枚隔てた内部でどっと音声が復活した。
 遠巻きな視線や密やかな悪意はうっとうしいな、と思う。だがそれだけだ。変に干渉されたり好奇心でテリトリーに踏み込まれたりするよりはずっといい。
 ほぉ、という佳主馬の溜息にも、安堵が含まれていた。五月蠅い教室から抜け出すとほっとする。
 すっと目を伏せた横顔は、輪郭がなだらかなシャープを描き、無駄のないラインが幼い印象を裏切って、少年期特有の鋭い美しさを見せつける。未だはっきりと浮かび上がらない、それでもゆっくりと目を覚まし始めているこの少年の生来の美点が、周囲から遠ざけられ、否応なく浮いている理由の一つなのだと、本人は知らない。
 さて帰るか、と佳主馬は上履きを鳴らして昇降口へ向かい、そこで靴を履き替えて校舎の外へと出る。ここまではいつも通りだった。
 校門を通り抜けようとしたところで――軽やかな呼びかけと共に、どしんと後ろから衝撃を受けた。いや、抱き着かれた。
「佳ー主馬くん!」
「うわあぁぁぁーっ!」
 抱き着かれたことそのものよりも、するりと首に絡んだ暖かさと耳に掛かった吐息に度肝を抜かれて、背中に覆い被さる身体を振り払う。
肘で押し遣るように振り向くと、弾かれた形になった手を残念そうに見遣ってから、彼はへらりと笑った。
「け、健二さんっ!?」
「うん」
 突然の襲撃犯の正体に、佳主馬は呆然とする。
「どうして此処に?」
「ちょっと、佳主馬くんの顔が見たくなって」
 そんな理由で東京から名古屋くんだりまでやって来たというのか。そんなまさか。
(近頃忙しいって、言っていたのに。ていうか、今日は平日なのだから、この人だって学校があるはず)
 ぐるぐると考え込んでいた佳主馬は、はっとして健二を見上げ、そこで周囲の視線に気付いた。
 健二さん学校は、と言い掛けた言葉を呑み込む。咄嗟に健二の手首を掴んだ。
「行くよ」
「うん」
 従順に健二は着いてくる。佳主馬は舌打ちしたくなった。校門前で騒いでいれば、衆目を一身に集めない訳がない。ましてや健二はどこから見ても高校生で、部外者だ。
 考えなくてもこの状況が健二にとって良くないと分かる。急いで現場から引き離したが、お喋りな中学生の噂を少しでも抑えられるだろうか。
(もっと気を配れば良かった)
 不甲斐なさに悪態を吐いた。何よりも自分が、好き勝手に口から口を渡る無責任な彼の噂話を、耳にするのが嫌なのだ。
 尊敬する彼に関する言葉なら、彼を正しく評価した物だけを聞いていたいと佳主馬は思う。


 健二は、通学路を佳主馬の家に向かって辿りながら、饒舌だった。疑問を解消したいのに、佳主馬は口を挟めない空気だ。
「冬服の佳主馬くんって、初めて見たな。格好いいね」
「そう? 学ランだし、ダサいよ」
「そんなことないよ。僕と佐久間の通ってた中学はブレザーだったし、近くに学ランが制服の学校もなくて。だから学ランって見慣れないんだけど、佳主馬くんが着てるの見たら、似合ってていいなぁって思った」
「……そう」
(ふぅん)
 内心で佳主馬は呟く。健二さんと佐久間さんって中学同じだったんだ。
 健二は年下の友人が一つ一つ自分の情報を注意深く集めているとも知らず、どこか浮かれた調子で続ける。
「女子達が騒ぐ気持ちが分かったかも。それにしても、中学生なんだね」
「何を今更…」
「あはは、でも学校にいる佳主馬くんを見て驚いたんだ。君が中学生だって重々わかってたし、夏休みの宿題だって見たのにね。ただ、普段が大人っぽいから、改めて事実を認識してびっくりしたというかなんというか」
「……ふぅん」
 呑気な健二に対して、佳主馬の胸中は複雑だ。
 佳主馬はいつも健二に追いつきたいと願い行動しているが、その事実は全く本人に伝わっていない。それは、敢えて伝えることでもないと佳主馬が考えていることに原因がある。自分が彼の隣に立てるよう努力すればいい話なのだ。
 だが、だからといって、当の本人に中学生だと連呼されるのは、悔しい以外の何物でもない。自らの失態を認識させられた直後なら尚更だ。
(大人っぽいって言うけど、それって「中学生にしては」という前提があっての褒め言葉だし)
 佳主馬が黙り込んでいる隙に、健二の舌の回転数は増している。
「そうそう。今度うちの高校文化祭があるんだけどね、物理部は何をするか決まってなくて、それで佐久間のヤツ自分は忙しいからって企画書押しつけてきてさ。俺だって忙しいし、第一物理部は毎年企画展示なんだ。その企画内容を決定するのは、部長の佐久間であるべきだろ?」
「……健二さん」
「何?」
 佳主馬を見下ろして、にっこり笑う。夏に上田の屋敷でも見た事がなかったような満開の笑みは、なんだか危なっかしい。ずっと手首を握っていたことに気付いて、佳主馬は自分に溜息を吐いた。
 突然の来訪の理由に健二は触れない。先程から何か言いたそうにしている佳主馬の様子に気付いているだろうに、話を逸らすかのように、常にない饒舌さで話し続けている。
(どうして来たのかなんて訊けない。学校のこととか、連絡くれなかったこととか。不満だし、問い詰めたいけど)
 ちょっとつついたら崩れてしまいそうな危うさが今の健二にはある。その危うさを回避するための、紙一重のハイテンションなのだと察した佳主馬には、彼を問い質すことは躊躇われた。
(よし)
 覚悟を決め、問い質す言葉をすり替える。
「こっちに来たのは初めてでしょ。折角だし案内してあげる」
「ほんと? ありがとう!」
 「名古屋っていうと、やっぱりしゃちほこかな」と言い放って、健二はにこにこする。そんな遠距離を今から移動するつもりか。
「そんな遠い場所に今から行くつもり?」
 呆れたように言い放って、手首を離した。
 寂しそうな顔をする彼の手を取り、改めて子ども同士が繋ぐように結び直す。こっちの方が一緒に歩いてる感じがして、いい。
「まずは腹ごしらえでしょ。お腹減った」
 惚けたように結んだ手を見た健二は、ぱっと顔を明るくして掌をぎゅっと握りしめた。
「う、うん! 佳主馬くんは放課後だもんね。何を食べに行くの?」
「駅前のクレープ屋」
「よく行くの?」
「割と」
 到着した移動式のクレープ屋で、健二は美味しそうにバナナチョコクレープを食べた。
「美味しいね」
「…それなり」
 移動式の店なので味は高が知れている。それでも幸せそうに食べる彼を付き合わせ、特大のツナサラダクレープを平らげた。ちなみに味と値段が程よく比例しているので、佳主馬はこの店を愛用している。
 駅から電車に乗って繁華街へ出て、普段の佳主馬の放課後コースを辿る。ゲームセンターに大型書店、OZの関連機器を取り扱ったOZネットワークショップの名古屋支店。名古屋らしいとはお世辞にも言えない観光コースだったが、健二さんが楽しそうにしてるならいいや、と観光の視点に関しては早々に放棄した。
「楽しかったね」
 夕日の橙色を浴びながら、健二は満足そうに頷く。
「そうだね」
 同感だと神妙に頷く。楽しい時間だったことに間違いはない。
 二人は高台に位置する道路を歩く。日没の時刻を迎えて世界は夕暮れに染まっている。
 道中で肝心な部分を一切語ろうとしなかった兄貴分を、佳主馬は気付かれないように凝視した。落ち着いた歩調で歩く健二の横顔は穏やかで、僅かに高揚の名残を残している。
 ゆるくカーブを描いた道筋を曲がりきったところで、健二は息を呑んで立ち止まった。つられて佳主馬も一歩遅れて歩を止める。健二は滴るような夕日に染め上げられる街並みを一望し、感嘆の呟きを漏らした。
「凄い」
 見慣れた夕時の街の風景は、確かに見事な物だった。けれど、彼と見るから改めて素晴らしいと思えるのだと、佳主馬は知っている。
「健二さん。今日は、泊まり?」
 ごく自然な佳主馬の問いに、健二は呆けたように動きを止めた。
「え…考えてなかったな。何も決めてなかった。そうだ、この辺りにどこか泊まる場所ある? ビジネスホテルとか」
「健二さん。今日はうちに泊まりなよ」
「え! いやいやいやそこまでご迷惑をお掛けする訳には」
「嘘」
 健二の言い訳を端的に切り捨て、挑発的に口角を吊り上げた。
「本当はそのつもりで来たんでしょ」
 健二の態度から、確信があった。
 問いに振り向いた顔は、無意識に考えていたことを不意に言い当てられて呆然とし、回答者の顔を見て我に返って取り繕おうとしたそれだ。
 彼が目の滲むような橙と、寂しい黒い影に塗り分けられていたって、その程度の変化は分かる。
(何も考えがなかったなんて嘘だ。あわよくば池沢の家に泊まる算段だったに決まってる)
 絶対者の余裕を滲ませて、薄く微笑む。夕日の陰影が、少年の輪郭をくっきりと際立たせ、彼を最強の王者へと変貌させる。
「あ、う、」
「行くよ」
 したたる黄昏の中を、健二の背中を追い越して歩き出す。言葉に詰まった彼が観念して追ってくる気配がした。