03.

 健二を出迎えたのは聖美の温かな歓迎だった。
 佳主馬は荷物を置くと真っ先に妹を見せた。この秋生まれたばかりの妹は首も据わっていなくて佳主馬では抱き上げることも出来ないけど、観賞には充分堪える愛らしさを備えている。生まれる前はぴんと来なかったのに、今ではすっかり佳主馬の自慢の妹だ。
 妹はぺったりと腹這いになって、初対面の相手をぽわっと見上げている。見下ろす健二も似たようなものだ。
「わ、何これ。可愛いなぁ…」
 とベビーベッドを覗いて言ったきり、妹と見つめ合ってぽわぽわと上気している。OZ上であればケンジが花を散らしているだろう。
「池沢佳緒里、だよ。知ってるよね」
「…うん。佳緒里ちゃん、こんにちは。お兄ちゃんの友達の、小磯健二です」
 ともだち。
 胸の中で繰り返して、その響きに全身がこそばゆくなる。思わず緩む頬を、意識して平静に保つ。
 健二はおそるおそる佳緒里に手を伸ばして、彷徨わせた挙げ句、遠慮がちに髪に触れた。柔らかさにほうっと息を吐いて「可愛いなぁ」と呟くので、佳主馬は努力の空しさを知った。
「さっきも言ったよ、それ」
「ええっ。そうだっけ」
 頬の緩みを留められない佳主馬に、健二も照れたように頬を掻く。あんまこっち見るな、と意識して念を飛ばしたのが功を奏して、健二はまたすぐに未知の生命体に夢中になった。ぷにぷにとマシュマロのような頬をつついて、ぶうっと小鼻を膨らませるのにわっ! と驚いている。ご機嫌取りだろう、こわごわと髪を撫でて、へにゃりと相好を崩した。
 何これ。
 佳主馬は笑いを堪えきれなかった。最早努力を放棄している。遠慮を忘れた佳主馬に、可能性は低いと思うが健二は不愉快さを感じているかもしれない。
 でもこれくらい、いいだろう! 先刻まで尋ねたいのを散々我慢して、案内してあげたのだから。
 肩を揺らすと、不思議そうな中にちょっぴり不審さが混ざった視線で、佳主馬をちろりと見遣った。
「どうしたの、佳主馬くん。随分楽しそうだね」
「お兄さんって、ほんっと期待を裏切らないよね」
「どういう意味デスカ」
 嫌な予感がする。と顔全体で言って反応するので、佳主馬はとうとう声に出して笑ってしまった。
「健二さん、子どもみたい」
 馬鹿正直に感動している。そりゃあ、自分だって初めて妹を目にした時は、声も出ない程感動したものだが。
(でもこれじゃあ、どっちが年上か分からないよ、健二さん)
 くっくっと喉を鳴らして瞼の端を拭うと、ええっと不満そうな声を上げた健二が身体ごと佳主馬に向き直ろうととしたが、小さい小さい爪が乗った、やっぱり小さい二本の指に、袖口を掴まれてぴしりと静止を余儀なくされてしまう。そんな様子に、また笑ってしまった。
(色々訊きたいけど)
 微笑ましい二人に目を向ける。
(夜になったら。寝る前にでも、それとなく訊いてみよう)
 取り敢えず計画を立てて、佳主馬も妹を構いに行く。この時の佳主馬に、予想以上に早く健二の口から色々な――それこそ色々な話を聴かされるとは、想定できないことだった。
 健二は結局夕飯の支度が調うまで、赤ん坊に構いっぱなしだった。
「健二さんと佳緒里、兄妹みたいだったよ」
 夕食の席で報告すると、両親は声を揃えて笑った。
「それは見たかったなぁ。健二くん、本当にうちの子になるかい?」
「いえ、兄妹だなんて滅相もない…」
 顔を赤らめてしゅるしゅると小さくなる。照れてしまった健二に聖美は笑いかけ、小皿にかき菜のお浸しをよそってやった。
「あ、すみません」
 他に食べたい物はある? と聖美が柔らかく問い掛ける。


 健二の正面には聖美が、その右隣には帰宅した佳主馬の父・和志が新聞を傍らに置いて座っている。その向かい、健二の右隣が佳主馬の席だ。
 四つある椅子は全て埋まっている。健二が借りている椅子はいずれ大きくなったら佳緒里が使用するのだろう。
 家族の団欒だった。暖かな夜に、所定の椅子が全て埋まった食卓、湯気の立つ食事。佳主馬は知るよしもないが、健二にとって望むべくもない、そして望むことすらなかった食事風景だった。
 今年の夏までは。
 未だ恐縮する健二に、遠い所からよく来てくれたわね、と聖美は労りに満ちた声で言った。
「佳主馬も喜んでるわ」
「い、いえそんな。こちらこそなんの連絡もなしに……」
「いいの。いつでも大歓迎だから遊びに来てって、上田から帰る時にも言ったでしょう? 今日はゆっくりしてらっしゃいね」
 母親の笑顔、というものを健二は直視できずに視線を逸らす。逸らした先にあった、硬質な輝きを秘めた切れ長の視線にもまた堪えきれなくなり、最終的には木目のテーブルに行き着く。
「……ありがとうございます、」
 一気にトーンの落ちた声は低く、弱い。
 健二は言いながら味噌汁のお椀を力なく置いた。落ち込んだように見える健二に、聖美は職業柄身についた柔らかさを遺憾なく発揮し、穏やかに語る。
「健二くん。何かあったの?」
「いえ、」
「……健二くんが訊かれたくないことまで、立ち入るつもりはないの。でも、健二君は佳主馬によくしてくれているし、私達も健二君には感謝してるわ。だから、困っているなら力になりたい」
「あ…」
 零れた呟きは尾を引いた。想われていると気付かなかった、と目を瞠った健二は慈しむ眼差しを送る聖美に慌てて謝意を述べようとして制される。そんな二人の遣り取りを、父と佳主馬もまた黙って見守っている。
「お礼は結構よ。そんな風に言われることじゃないしね」
「でも…」
「健二くん」
 言いたくなかったらいいけれど、と言い置いて聖美は優しく言った。
「おばさんが力になれる話だったら、聞かせてほしいわ」
 一歩引いた物言いに、健二はぱっと顔を上げて口を開きかけた。
「い、いえ!もういいんです。迷っていた事があって。でもやっと決心が付きましたから」
 健二は目を伏せる。
 視線で続きを促しながら、迷うように見える仕草が、佳主馬の目にはやけに哀しげなものとして映った。
 ゆっくりとした動きで頭を上げる。目に力が宿る。箸をきちんと揃えて置いて、健二は言った。
「俺、家を出ようと思います」
 爆弾発言だった。
 佳主馬は愕然と凝視する。「俺」と言った事よりも、綺麗すぎる瞳の色に、鈍器でぶん殴られたような気がした。



04.


 冷え切った家庭だった。健二の脳裏には、暗く冷たいイメージとして強く焼き付いている。鍵を回す音。人気のない廊下。闇に沈む居間。叫んだ傍からその声は吸い込まれ、重苦しい空気に包まれ窒息しそうになる。無人の家。そのイメージは健二から永遠に消えることのない呪縛だった。陣内の暖かさを知って、家族の一員として迎え入れられた現在でも。
 健二は語る。
「うちはもう、夫婦仲は冷え切っていたんです。両親と三人で会ったのも何時ぐらい昔か、思い出せないくらいです」
 顔を合わせれば罵り合っていた両親は、何時しか顔を合わせることを止めた。その変化に健二だけがついて行けなかった。
 幼かったのだ、と現在の健二は噛み締める。
 テストで点数を採れば認めてくれると思った。以前のようによくやったと顔を並べて笑ってくれる。健二は勉強に没頭した。得意だった数学にますますのめり込むようになった。けれど両親と自分の並んだ姿は戻ることはなく、いつしかその行為は寂しさを忘れる為の現実逃避の手段へと成り果てていた。
 けれどその手段があの夏に上田で大切な人達を救った。その実績が間接的に健二の願望を刺激し、いつしか諦めていたはずの望みが再び頭をもたげるようになった。数学だけしか取り柄のない自分でも、やれたではないか。彼らの暖かさを分けて貰い、大切な家と家族を護ることが出来た。だったら、血の繋がった家族だって――。
 手を伸ばしてみようと、決意した。
 幸福な過去のやり直しを望んだのだ。
「夏休みの後で、両親を引き合わせようって色々やってみたんです」
 食事のセッティングをしたり。電話口で顔を見せるだけでいいからと食い下がったりもした。これまでの健二からは考えられない努力だったと思う。
「でも駄目だった。かえって拗れただけだった」
 健二は遠くを見る目で言った。そんな彼の横顔を、年下の友人が呆然と見上げている。
(佳主馬くんには悪いことをしちゃったな)
 こんな話、聴きたくもないだろう。
 そう気遣いながらも、口は止まらないし、その上偶然夜中に立ち聞きしてしまった両親の言い争いを思い出して、顔が歪んだ。
「それに、『俺が居なければ離婚できる』って」
「――そんな事言ったの!?」
 信じられないという響きを載せた鋭い声が右隣から飛ぶ。曖昧な笑顔で肯定した。佳主馬は息を呑んだ。
 言葉を紡いだ瞬間、心臓が引き絞られる思いだった。断腸の思い、というやつだ。けど終わりにしないと。
「この家に来てわかったんだ。うちはもう、家族にはなれないんだなって。二人とも、俺のために家庭の形を維持し続けてくれた。けど父さんは会社の若い人と付き合っているし、母さんは仕事でバリバリ働きたいと思ってる。だから、もう親の役割から解放されてもいいんじゃないかって。僕だってもう子どもじゃないんだし」
 健二は流れるように続けた。
「僕の我が儘だったんだから」

 途端、急激に隣で気配が膨らんだかと思うと、怒声と共に爆発した。

「それでいいのかよ!!」
 佳主馬がもの凄い勢いで怒鳴った。椅子を蹴倒して前のめりになる。
「あんた、本当にそれでいいのかよ!そんな、そんなっ……」
「いいんだ」
 怒りと悲しみで言葉に詰まった様子の佳主馬に、そっと微笑む。自分なんかのために必死になってくれて、少し嬉しさすら感じる自分はおかしいのかもしれない。
(けどいいんだよ、佳主馬くん)
 健二は胸の内でそっと呼び掛ける。
 やりきれなさに顔を歪める必要なんて無い。
(これが、俺が自分で下した結論なんだ)
 微笑む健二と、絶句する佳主馬と、理解が追いつかない聖美と。
 不均衡、かつ不穏な食卓の空気を掃くように、和志が努めて静穏さを維持して問い掛けた。
「それで具体的にどうするんだい」
「父さんっ」
「学校の近くに家を借りようと思います。これからちょくちょく家を空けなくちゃならない用事も出てくるし」
 健二はあらかじめ考えていた事を訊かれて、すらすらと答える。
「その用事が何か聴いてもいいかね?」
「それは、ちょっと」
「そうか」
 若干言い淀んだ健二に、はっと聖美は我に返り、取り敢えず話の流れに乗った。
「篠原さんの家にお世話になれば……」
「そそそそんなっ! 夏希さん家にだなんて滅相もない!」
「遠慮しなくてもいいのよ? 健二くんが言えば雪子さんだって」
「だっ、大丈夫です。佐久間の家も近くにあるし」
 言い繕うと、聖美は首を傾げ思い出そうとする。
「佐久間って、オズのトラブルの時にカジノを造ったあの男の子?」
「そ、そうです。佐久間の家にはよくお世話になってて」
「そうか、なら大丈夫か」
 うん、と頷く和志に健二はほっと胸を撫で下ろした。勢いで思わず言ってしまったが、独立を反対されては困る。反対されるだけならまだしも、両親に抗議の電話でも掛けられたら、それこそ今後の生活設計がおじゃんだ。自分で悩んで悩んで考え抜いて下した結論だからこそ、この人達には踏みにじられたくなかった。
「その話、佐久間君には?」
 至極当然の確認に、健二は気を取り直して答える。
「いえ、まだです。ていうか今決めたんで」
 けれど佐久間は反対はしないだろう。小学校時代からの親友は、とうとうそうなったかと溜息を吐いて、面倒がる振りをしながらも健二に力を貸してくれるに違いない。持つべき者は、朋友とも言うべき腐れ縁だ。
「ねぇ」
 しみじみと友の有り難みを思い返していると、黙っていた佳主馬が唸るように割って入る。
「ちょっと、無視しないでよ健二さん。本当にそれでいいの。まだ負けてないって、諦めないって言ったのは健二さんじゃないか!」
 最後は涙交じりに、何処か縋るような悲鳴で、佳主馬は怒鳴った。確かにそれは、かつてあの暑い夏の日に、健二が彼に言った台詞だ。
「佳主馬」
 健二は制止する和志を制し、向き直り、まっすぐ視線を合わせる。キングカズマが破れ、もはや絶望かと思われた状況で言い放ったように、凜とした声色できっぱりと断言する。
「諦めたんじゃないよ」
「でも、」
「無くしたものは、還らない」
 え、とも、あ、ともつかない声を漏らして立ちすくむ彼に、健二は意志の通った言葉を紡いだ。
 佳主馬が尊敬する、毅くしなやかな兄貴分そのままの姿で。
「失った物に縋り付いて、前に進めないままじゃ駄目なんだ。始まるために、終わらせないと」