灯を落とした部屋は、青い仄かな明かりに満ちて、いつもとちがって見える。
薄く開いたカーテンから月光が差し込んでいる。健二が口にこそ出さなかったが、カーテンに手を掛ける佳主馬に物言いたげな視線を送って、外の光が入ることを控えめに希望したためだった。
自分自身もベッドに寝そべって、ベッドの横に敷いた布団に横たわるその人の背中を、佳主馬は見つめる。
(何も言わないし。健二さんがそうしたいなら、それはそれで別にいいのに)
流石に普段は就寝時には閉ざすが、上田の家ではカーテンそのものが存在しない部屋で引き戸を開け放って眠る。健二も佳主馬も似たような状態で、それを不満に思ったこともない。健二の客間で二人雑魚寝をしたこともあったから、健二だって佳主馬の考えくらい知っているはずだ。
要は、上田のように月明かりを取り込みたいと健二が希望するなら、佳主馬は特に構わない。なのに健二は要望を言おうとしなかった、と思い返してイラッときた。
「起きてる?」
反応はない。だがこの感じは、
(うん、まだ起きてる)
ついでに就寝までの健二の気まずそうな挙動と、連鎖して夕食時のあれこれが思い出される。
(ムカツク)
ただ、これに関しては佳主馬も悪い自覚がある。押し黙っていたのは自分も一緒だ。怒鳴って、泣き喚いて、どんな顔をすればいいのかわからなかった。だがそのために二人してだんまりでは、折角健二に色々聞き出すチャンスなのに本末転倒だ。
今度こそ重苦しい空気を払拭しよう、ついでに理由をもうちょっと詳しく訊こう、と心に決めて重ねて声を掛ける。
「健二さんさぁ、本当にあれで良かったの?」
「……、僕、数学オリンピックに参加しようと思ってるんだ」
「え? 数学オリンピックって……あの、今年落選したって、あれ?」
(挑戦するか決めてない、って前言ってなかったっけ?)
意外な内容に跳ね起きる。健二は、はは、と乾いた笑い声を上げて、
「そう。あれ」
と認めた。
「なんで急に」
「前から決めて、準備もしてた」
きっぱり返されて言葉を失う。OZでチャットもしていたのに、そんな決意を固めていたなんて全然知らなかった。
いつも通りの声は、どこか寂しげな調子で続ける。
「それでさ、エントリーシートに記入してる内に、数学オリンピックに出ること親は知らないんだなって、思って。今年もそうだったし来年もきっと……。色々努力したんだけど、そんなこと考えてたら…ああ、もう駄目だな。って」
「健二さん」
続きは語られなかった。
「健二、さん」
語る言葉を持たない自分に気付く。僕が、この人に何を言ってあげられるんだろう。この人に大切な物を貰ったのに、僕はこの人が落ち込んでいるときにどんな言葉を掛ければいいのかも解らない。この人の痛みがわからない。
健二さんの背中がやけに小さく見えるのは、自分が追いついていないからだと気付いた。距離が遠い。
「…………」
結局佳主馬は唇を噛んで、敷布に舞い戻った。潜り込んで、かたく布団を巻き付ける。
沈黙が落ちる。チッ、チッ、と秒針が規則正しく時を刻む音だけが満ちていた。佳主馬も健二も動かない。ただ、健二が請うて招き入れた光だけが、僅かに秋の夜の底知れない暗さを打ち消していた。
どれほど時間が経っただろう。
健二は静かに布団を捲ると、立ち上がって佳主馬の側に寄った。気配がする。
「こんな事言うのもおかしいと思うけど、……さっき怒ってくれてありがとう。嬉しかった。それから急に押しかけてきてごめん。挙げ句に自分勝手な決意めいた宣言したみたいになっちゃって…年上なのに格好悪いなぁ」
独白めいた、それでも佳主馬に向けられた言葉は、心を大きく揺さぶった。
健二の背中が思い出される。痩せて骨が浮いていて、背骨と肩胛骨が影になっていた。秋の夜にひっそりと溶けそうなそれは、本当は誰よりも強くてしなやかで、加えて陣内家の全員を背負ってしまえるくらい大きいのだと身に染みている。
ずっと見続けてきた背中だ。
あれほど欲しがっていた物をきっぱりと振り捨てて、前に進む決意をした背中だ。
(ていうかさ、健二さんわかってないだろ)
遠慮される方が腹が立つ。それなのに、その腰の引けた台詞群は何だ。
健二は耳をそばだてる佳主馬に気付かず、相手が眠っていると思ってリラックスした声で続ける。
「それに、もう大丈夫だから。僕はもう独りじゃないってわかったから。聖美さんもお父さんも佳緒里ちゃんも、あったかく迎えてくれて嬉しかった」
そんなの当たり前だよ――よっぽど口に出して言ってやろうかと思った。
自分がどれだけのことをしたか、肝心の健二本人に自覚が薄い。あの夏、あの場にいた全員の命を救った。それが陣内の皆にとってどれだけ偉大なことだったか。諦めない雄姿がどれほど佳主馬の世界を揺さぶったか。
(気付けよ。あんたはもう家族の一員だよ)
陣内という輪を構成するひとりなのに、どうして気付こうとしない。
蓑虫のようにくるまった布団の中は当然暗い。真っ暗な視界でいらいらを募らせる佳主馬の頭上から、蕩々と健二の言葉が降ってくる。
ごめんね。ありがとう。背中を押してくれて助かった。妹さんかわいかったね。佳主馬くんもすっかりお兄ちゃんしていて驚いたよ。今日は本当に楽しかった、し、大切な一日になったよ。全部佳主馬くんのお陰だね。ありがとう。
(ありがとうって、そればっか)
こそばゆいような、いたたまれないような気分になって身体をいっそう丸める。怒り以外の喜びで、胸が温かい、ような。何もしていないのに褒められて、居心地が悪い、ような。
最後に躊躇いがちに健二は言った。
「ねぇ…佳主馬くん。あのさ、さっきの涙だけど」
――なみ、だ?
「心配して貰えてるって、思っていいよね」
台詞の内容を認識した瞬間、苛立ちもやりきれなさも全て吹っ飛んだ。佳主馬はがばっと布団を跳ね上げる。
「健二さん、もういいから寝るっ!」
「えっ、起きて、えっ?」
目を白黒させる年上の人を布団に叩き込んで、佳主馬自身もその横に潜り込んだ。背を向けるその人が振り返れないように、身体全体を押しつける。特に顔。重点的に顔。
「ええ、佳主馬君これは一体」
「おやすみ」
「、えと」
「おやすみ」
「…………はい」
まだ言いたげな雰囲気を無視する。暫く佳主馬を窺う気配があったが、やがて寝入ったようですうすうと寝息が聞こえてくる。
頬が火照る。心臓が五月蠅い。
恥ずかしいにも程がある。
羞恥の波をやり過ごすと、耳には健二の心音だけが残った。それと穏やかな呼吸音。じっと黙って聴いていると、今度は疲労と眠気が襲ってくる。佳主馬は逆らわずにその波に乗った。
とろとろと溶けていく脳裏に、今日の健二が浮かんでは消える。校門で待っていた彼。へにゃりと気の抜ける笑顔。危なっかしい満面の笑み。夕焼けに塗り分けられた寂しい横顔。夕食の時のまっすぐ前を向いた眼差し。赤ん坊を撫でる手。強い背中。
最後に浮かんだのは、なぜか見ていないはずの、自分に語りかける彼の顔だった。優しい口元と芯の強い眼差しが特徴と言えなくもない尊敬する兄貴分の面持ちは、呆気ないほど簡単に想像出来た。
(…なんだ)
眠りに落ちる間際、安堵に満ちた感想がよぎる。
(背中、こんな近くにあった)
現実の掌でパジャマの背を握りしめ、額を健二の肩胛骨の辺りに押し付けながら、幼い顔をした佳主馬は急速に眠りに沈んでいった。
ゆらゆらと意識が溶ける白い世界に、言葉が浮かぶ。
昨夜健二が引き揚げたリビングで、父は真面目な顔つきで言った。
『佳主馬』
『彼はきっと独りで悩んで独りで決めて、そして独りでどこへでも往ってしまうタイプの人間だ』
『彼は僕らを参考にして、まっさきに次どうするかを語ってくれた。そのことに、感謝しなくてはならないよ』
感謝って、なんだ。
答えが見つからないまま朝が来て、佳主馬は彼を送り出した。
翌朝池沢の家を辞すとき、玄関の前で健二は佳主馬に引き留められた。
「僕達は、家族だから」
済ました少年の顔を、親しみに緩ませる。
「遠慮せず遊びに来て。大歓迎だよ」
密やかな生気に満ちて、今まさにほころび始めた美しくなるだろう少年の微笑みにほけっと目を吸い寄せられていた健二は、ぱちくりと瞬いた後、大きく頷いた。
「うん。……ありがとう。じゃあ、また」
「またね」
また来て、と添えられた念押しに健二は大人びた苦笑を滲ませ頷く。佳主馬と居ると、どうにも年上らしく、大人らしくと振る舞ってしまう。
「皆さんもお世話になりました」
玄関まで見送りに来てくれた和志と佳緒里を抱いた聖美に、ぺこりと頭を下げる。感謝しきりだ。
「今度も連絡なしでいいから。いつでも遊びにおいで」
「力になれることがあったらなんでも言ってくれ」
笑って送り出してくれる彼らに手を振って別れ、健二は東京へ帰った。
それが4ヶ月前の話だ。
本棚の設置を終えて、早くも疲労を訴える肩から力を抜いた。引っ越しまで予想以上に時間が掛かってしまったが、年度内に実行できたから一応想定範囲内だろう。
健二の新しい部屋は、南向きで採光に優れていた。ダンボール箱が積み上げられ、まだカーテンも張られていない部屋は、午前の光が差し込んで明るい。
築10年で1LDK。佐久間が情報網を駆使して探し当てたこの部屋は学生向けマンションとしては破格の賃貸料で、末端の末端に昇格した小遣い稼ぎの割がいいことを差し引いても、OZのアルバイトで貯めたお金とこれからの収入のみで何とか諸々支払っていける。両親からの仕送り(というより毎月口座に定額が振り込まれるそれは、養育費と学費と言った方が正しい)は、出来るだけ将来のために残して起きたかった。それが、息子に贈られる最後の餞別であったとしても。
手つかずのダンボール箱を仕分けして幾つか自室に持ち込んで、ふぅと息を吐く。健二は自室の入口に立つと、新居を確認するように、ぐるりと見渡した。
全体の面積は格段に狭くなったが、健二の部屋の間取りは、元の家と殆ど変わらない。寧ろ使用する人間のいないスペースが減った分、押し退けがたい暗い冷たさが緩和された気がする。佐久間の家ともそう離れていない。
悪くない。
あれから佳主馬とは、何だかんだで度々チャットしている。先日も予選通過を報告したばかりだ。冬休みには相談して日程を合わせ、短いながら佳主馬と夏希、健二とそれから佐久間を加えて上田で楽しい時間を過ごした。
持ち込んだダンボール箱を引っかき回して、地震対策用金具を発見する。本棚を固定しようと金具を持って立ち上がった健二は、一瞬動きを止めて、すぐに作業を再開した。しかし瞳の色はここではない遠くへ旅立ったままだ。
秋も深まった頃、名古屋まで押しかけた自分に佳主馬は家族だと言った。けれど厳密な意味で健二は佳主馬の家族ではないと、言われた彼は冷静に自覚していた。せっせと作業を遂行しながら、見送ってくれた顔が浮かぶ。佳主馬に聖美、佳緒里、和志。冬休みに会ったときは、短期間ですくすく育った佳緒里の成長ぶりにびっくりしたっけ。聖美と和志も引っ越しや健康のことなど、あれこれと気に掛けてくれた。
もし佳主馬が知ったら血の気が引くほど冷淡に、健二は思った。
(血の繋がった家族は一つきりだ)
佳主馬の気持ちは素直に嬉しい。しかし、佳主馬にとっての家族が聖美と和志と佳緒里であるように、健二にとっての家族とは、我が子に関心を持たなかったとしても、父と母なのだ。
(……でも嬉しかったなぁ)
照れを帯びた淡い微笑が、自然と口元を彩る。キング・カズマを操るときの闘志が漲っていない佳主馬の顔は幼くて、気負いのないものだったけど、だからこそ当たり前のように言い切られた見送りの言葉が心からの想いなのだと実感できた。
(それに、あの気付いたら頷いてる雰囲気は、そこらの中学生に出せるものじゃないよ)
「よし、終わり」
やっぱり佳主馬は年下の弟分で、格好いいキングだ。
去年の今頃は想像もしていなかった友人の存在に、健二は不思議さと同時に現在の幸運を噛み締めた。
大切な繋がりの輪の一員だと、てらいもなく断言してくれる存在。
それが、あの夏に健二が手に入れた宝物。
「がんばらないと、なっ」
勢いを付けて別のダンボール箱を持って立ち上がる。中身は数学書なので健二の細腕には荷が重い。よろめきながら本棚の方へ運んでいく。
陣内の人達に恥じない自分で在れるように、出来る事をやる。
一度挫折した数学オリンピックに再挑戦する決意を固めたのは、そのためだった。今度は夏希だけではない。自分を迎えてくれる人達の隣に立つために、自分の限界の先へと昇る。
誰にも言っていないが、実は健二が決意を固めた経緯には、負け戦だと覚悟しながら母と妹のためにラブマシーンに挑んでいった佳主馬の影響も大きかったりする。
大切な誰かを守り隣に立ち続けるために、果敢に戦いを挑んだ佳主馬の姿は、健二の胸にも強く焼き付いた。
(助けてもらっているよなぁ…)
背中を押されまくっている、と健二は苦笑する。先日の件だって、わざわざ名古屋にまで背中を押されに行ってしまった。そんなつもりはなかったが、宣言の直後に自分で気付いたようにどう見てもそんな形だろう。
年上なのに情けない。
王者然とした彼の前に立つとどうでもよく思えるが、そこは兄貴分としては譲れない一線の保持が出来ているかも曖昧な有様だ、と空笑いして数学書を棚に押し込む。時計の針が9時15分を指し、さらに一周する間、健二は黙々と作業に励む。
朝の光を透かした塵が無言と共に降り積もる空気を、チャイムの音が打ち壊した。
ピーン ポーン
予定外の訪問者の知らせに、はたきを取り出した姿勢で固まる。再度響いたチャイムに、慌てて玄関に走った。
「はぁい」
ガチャリとドアを開ける。
「おはよ、健二さん」
「わぁ、佳主馬くん! 早かったね」
11時に到着する予定だった佳主馬が、赤いダウンを纏って立っていた。靴を脱ぎながら尋ねる。
「夏希ねぇと佐久間さんは?」
「まだ。これから出るってさっきメールがあった。夏希先輩はすぐ着くって」
そ、と短いいらえが返る。馴染んだ響きはまた少し低くなっている。
「いらっしゃい」と身体を引いて招き入れると、「おじゃまします」と礼儀正しく言ってから三和土に足を踏み入れる。部屋に乗り込んだ佳主馬は、物珍しげにきょろきょろと検分した。健二は二ヶ月ぶりの友人の姿ににこにこと機嫌のよさを隠さない。
「カーテンも張ってないんだ」
「うーん。それブラインドにしようか迷ってて」
「安いし?」
「そうそう。手入れも楽みたいだし」
「ふぅん。ネットの配線は?」
「あ! それ手伝ってくれたら嬉しいなぁ…」
会話をしているだけでも仄かに高揚している健二に、佳主馬は軽く肩をすくめる。
「別にいいけど。佐久間さんも参戦しそうだし」
皆でやるなら大騒ぎだね、と、騒がしくも楽しいだろう一幕を想像したのか、切れ長の双眸にきらりと光を閃かせる少年と顔を見合わせ、健二も無意識に満ち足りた微笑を浮かべた。
危なっかしさのない満面の笑顔に、ぴっと背中を伸ばしてびっくりする佳主馬の様子に、本人は気付いていない。何が飲みたい? と穏やかに声を掛けた。
唯一広げられたテーブルの上で、携帯の着信を知らせるランプが点滅している。件名は「到着」。キッチンで佳主馬と並んでお茶を淹れる健二が背にした窓、その下では、マンションのエントランスに続く道路を歩く二人の高校生の姿があった。眼鏡を掛けた少年はひょうきんに、受験を終えた少女は張り切って言葉を交わしながら、真っ直ぐに健二の部屋へと近づいてくる。
お茶の淹れ方を佳主馬に指南されながら、健二はふと幸福な苦笑を溢した。今日はまだまだ、ひとりになれそうにない。
さみしさの地平は、そこにあって、いつでも健二を待って佇んでいる。数学の真理を求めてそこに向かって歩きながら、健二は時折思い出したように振り返ってみる。そうすると、背後には美しい地平線があって、健二を見送ってくれていると知る。
地平線はひとつでは成り立たない。点の集合が線であり、界と界の境界が線である。ふたつ以上の世界があり、摩擦を起こさない限り、地平線は存在しないのだと、健二はこの年になってようやく思い知った。
だから、健二は還って来ようと思うのだ。数学の海をどこまでも泳ぎ、美しくも孤独な光景を目に焼き付けて、そのささやかなお零れを携えて、地平線まで戻ってくる。
彼を待つ、血の繋がらない家族の元へと。