01. 夜明け前


 暗い部屋にて、少年がフローリングの床に直接座り込み背中を丸めている。本棚や机やベッドや部屋中にある物達に等しく降り積もった沈黙は、時が流れているのを忘れているかのような静謐さで息を潜めている。薄夜の中に白いポロシャツが浮かび上がる。外はうっすら紫色に染まっている。
 かりかりかりかり。
 ペン先がレポート用紙を滑る音だけが響いて存在を主張し、同時に余分なもののない部屋に規則正しい旋律を溶け込ませていた。かりかりかりかり。少年の思考の軌跡が紙の表面に刻まれる。数学に没入する指先の奏でる音はよどみなく一定の速さを保ち、発声やキーボードなどより余程雄弁な会話を紙上にて取り交わしている。
 部屋の東の方位を向いた壁面から、じわじわと目の覚める気配が滲み入る。ブラインドによって弛く遮断された窓の外で、ゆっくりと空が変化し始めていた。端に赤が染み出たかと思うと瞬く間に勢力を拡げて、さめた月を擁する青色へと侵攻し、部屋の内部の空気すら塗り替える。
 それすら気付かず少年は一心不乱に問題に取り組んでいた。彼の心を掴んでやまない数学の世界の、今知る地平の更に先へ辿り着けるという手応えが、滲む視界の彼の手を突き動かす。
数字が踊る。ペン先が走る速度は一定に、変わらぬ集中によって構築された理論は、正解の地平へと一直線に伸びていく。
 太陽が首をもたげ、息を吹き返す。未だ眠る街並みのそこかしこで、露を含んだ大気を打ち払おうと爽やかな空気が静かに待ち構える。
 ブラインドの僅かな間隙から数条の光が射し、部屋の暗さを和らげて、かりかりかり、かり、と健二の手が止まる。

「――ああ、解けた」

 夜が明けた。






02. 眼鏡


 部室にてPCに向かいながら駄弁る二人。
「視力幾つ?」
「0.1」
「悪いなぁ」
「これでも小学生から掛けてたにしてはいい方なんだぜ」
「ふぅん」
 暫く沈黙。
 カタカタ作業した後、どうでもよさそうに健二が口を開く。
「アバターのサクマってさぁ、メガネがないとサクマじゃないよな」
「何だそれ」
「ただの猿」
「酷っ!?」
 マスターらが寝静まった深夜、OZ空間の雑談でその話題が持ち出された。
「サクマさんのメガネを取った姿は想像しにくいですよねぇ」
「……………………板チョコ?」
「キングまでそれ言う!?」
「俺までって、他にもそう思った人がいたんだ」
「黒歴史!頼むから思い出させないでキング!」
 同時刻、遠く離れた管理棟エリアで逞しい仁王の肩にちんまり座って周回していたクマが唐突に身体を震わせた。
「くしゅんっ」
「ケンジ?」
「大丈夫ですよ、ラブマシーンさん、そんなに心配そうな顔なさらないで下さい。どうせ板チョコが噂話でもしているんでしょう」
「板チョコ……?」

 初期ケンジと何があった。




03. はこにわ


 もう長い時間此処にいる。現実世界ではどれだけ経ったかしれないけれど。白くてこじんまりとしたドーム状の空間は、サイズの小さい僕には居心地がよかったが、体格が立派になってしまった彼にとっては少々手狭かもしれない、と気を遣ってしまう。
 元々は何も無い空間だった。初めて訪れた(もとい引っ張り込まれた)時、ただただ白い地平線がどこまでもどこまでも延びているばかりで、目の前にいる黒いバグのような『彼』だけが異彩を放って、生命の存在を主張していた。それも昔の話だ。現在は白い部屋の中央寄りに鮮やかなオレンジ色のソファが置いてあって、その上には幾つものカラフルなクッションがやっぱり置かれている。ソファの前には一本足のサイドテーブル。中央を挟んだ反対側にはポップなデザインの旧型テレビ。部屋の隅には小さな冷蔵庫まで。どれも林檎みたいな真っ赤な色をしている。そして、立派な仁王像になった彼がいた。
 大きな四人掛けのソファにすっぽり収まった僕は手を差し伸べた。すると ポンッ と音がして宙にクッションが現れ、掌まで落ちてくる。此処では望んで手を伸ばせば何でも手に入った。ただし、ラブマシーンさんが持っているものだけ。
 舞い降りた赤い奴を抱き締めて、膝を曲げてぎゅっと顔を押しつける。
 此処は安全だ。あらゆるウイルスからも、システムの歪みやバグ、外敵、OZによる一日一度の強制システムスキャン、影響を与える外的要因すべてから守られている。さみしさもない。僕を傷つけようとする何かもいないから、痛みもない。不思議なことに、彼が拵えた空間では時間の流れも関係ない。やっぱり彼の体内だからかな。
 自由で平和な空間。
 箱庭とは此処だろうか、それとも――と思考が天井を突き抜けた先まで延長される。それとも、現実とリンクしていると同時に現実から切り離され、現在僕の目の前にいる彼の意のままになり、蹂躙され、いずれは彼に全て呑み込まれるだろう、OZという仮想空間そのものだろうか。
 彼に尋ねれば答えてくれるだろう。彼は何でも知っている。外で何が起こっているか、僕はぼんやりとしか知らないけれど(そして決して善い行動をしているのではないらしい、僕を喰った時のことを考えれば想像がつく。ただ閉じ込められた僕に把握できるのはその程度だしあくまで想定の域に過ぎない)、実験とやらが済んだら誰も彼もが彼を欲しがるのだろう。引く手あまただ。僕みたいな一アバターとは違う、貴重な存在だ。
「ラブマシーンさん」
 彼は首をかしげて、「なんだ」と口を動かした。当初は黒線が折れてぐしゃぐしゃになったような姿だったのに、どんどん成長して人に近づき、言語を獲得した。彼はめざましい速度で強くなり、現在進行形で賢くなっている。
 此処にいると妙なことを考えてしまう。余計なことだ。考える必要なんてない。不安になる要因から離れて、守られていればいい。多分、この空間の意味はそういうことだ(と、彼の態度から思っている)。それなのに邪魔するものもいないから、思考は遮られることなくとんとんと進んで坂を転がっていってしまう。多分、この空間は僕にやさしくない。
 いや、優しいのかな、易しくないだけで。数学の問題で難易度の高さを厭ったことはなかったのに。マスターはどう思いますか。
 マスター。
 マスターの顔を思い浮かべると、胸がずきんと痛む。何にも脅かされることのない空間で、マスターに思いを馳せるときだけ現実に引き戻され、架空の心臓が痛みを刻む。他のアバターのことにまで気が回らない僕は薄情だ。あの優しい人のアバターなのに、とまで思考を転がしてまた胸の痛みが増した。此処にいる時間が経過するごとに、痛みが大きくなっているのを実感する。
 マスターは外でどうしているだろう。僕が此処にいるということはOZ内の分身であるアバターを制御不能に陥っているということで、そうなれば当然OZでは生活できない。長野では普段ほどOZへログインすることもないだろうけど、だからといって全く利用しないということもない。携帯メール、通話、新幹線の席の予約。今頃アカウントを失って、サービスを利用できずに困っていないだろうか。
「…………」
 名前を呼んでおいて黙った僕にじっと注がれていた視線が、ふっと緩んだ。気がした。
 ポポポポポポンッ、と連続した音に慌てて顔を上げると、僕を見ながら彼が手を宙に伸ばしていた。
「ちょっと、えっ!?」
 あっという間に僕は降り注いだクッションの下敷きになった。なんだろう、その想像するだにコミカルな絵。
 それとも、もっとクッションをねだってると予想したのかな。だとしたら、胸が仄かに暖かくなる。
 思わず浮かんだ笑みのままに呼び掛けた。
「ラブマシーンさん、」
 これじゃ潰れちゃいますよ。
 真面目な様子で頷く気配がして、ポポポンッ という軽い音と共に視界が明るくなった。二つ三つを残して小山を消し去り、床に胡坐をかいた彼に習って、体勢を体育座りに整える。何処が床か、白が同化してよくわからないけれど。
 外にいるマスター。此処は何もなくて、穏やかで、心休まる場所です。マスターは夏希先輩のご実家にいらっしゃるんですよね。僕が最後にいた夜のあなたはどこか落ち着かないようだったけど、今頃はうまく溶け込めているでしょうか。楽しんでいますか。笑っていますか。子供たちにからかわれたりして怒っていますか。寂しそうな顔で泣きそうになっていませんか。
「…ケンジ?」
 不思議そうな視線を感じて、目線を抱えたクッションへ落とした。
 マスターのことが頭から離れなかった。だって当然だ、僕はマスターのアバターなのだから。今頃寂しそうにしていないだろうか。顔を曇らせていないだろうか。僕がいなくなって心配も掛けただろう。今すぐにでもマスターの元へ飛んで帰って、無断外出を謝って、ほっと笑う顔が見たい。だからマスターの所へ帰らなければならないのだ。可及的速やかに。
 それでも、と声を上げる心中を押し殺して、躊躇いがちに顔を上げて、呼び掛けた。
「あの、ラブマシーンさん」
 ピンッ と軽い電子音。
 彼ははっと立ち上がると、斜め上の空間を射貫いた。外で何かあったのだろう。こういうことは何度かあった。すぐに消えるかと思われた彼は、しかし気に掛けるように僕に視線を移すと、こちらを見下ろして動かない。

(どうして、)
 こんな時に あなた は、動いてくれない。

 一抹の悲しみが教え寄せる。一抹しか訪れないことが問題なのに、その問題を看過する。
 マスター。
 僕には彼が子どものように見えます。寂しそうな子ども。この広い世界で、ひとりぼっち。彼は知らないでしょうが、僕にはわかります。心に空いた空虚な穴を埋める何かを探している。知っていることだけでは満足出来ずに次の真理へ挑もうとするところがあなたにも似ているような。
 マスター、と健二に呼び掛けながら、自分自身の気持ちを確かめる。引き延ばされた時間の中で膨れ上がった感情が、抑えの効かないところまで来ている。それを解放することが敬愛するマスターと、何よりこれまで積み重ねてきた自分自身というデータを裏切るとしても、僕は。
(ラブマシーンさん)
(マスター)
(ラブマシーンさん)
(マスター)
( あなた 、 たち は 似てい る)
 形のない大きな衝動が、腹から、胸から上昇して喉元を声を言語を覆い尽くす。錯覚が現実に入れ替わる。優先順位の変更(は起きない)。倫理観を再編成(しない)。感情回路に数値の変化はない。数字で構築されたボディは変わらない。なのに中身が丸ごと変質していくのをはっきりと感じた。頬が、唇が、綻ぶのは何故? 頭の先までその波に呑まれるのを感じながら、胸中でひっそり呟く。
 マスター、ごめんなさい。
 僕はこの人を、ひとりにしたくなくなってしまった。あなたの困っている顔が目に浮かんでいるというのに、それでも、空に独りぼっちで君臨する輝く太陽のような彼を、置き去りにしたくないと、これまでにないほど強い気持ちで感じたんです。こんな僕をおかしいと思いますか?マスター。
 ラブマシーンさんはじっと僕を見ている。無機質な眼差しは強い。驚くほどに。
 視線と同じく仮面でも隠れないのは僕と同じ大きな耳だ。たとえ形が変わっても、彼が愛した、僕の耳のままだ。
 戻れない、なんて、気付かなかった。そうだよね、僕? 箱庭でも構わない。
 僕はいつの間にか祈りの形に組んだ手をほどいて、待っている彼に笑顔を浮かべて問い掛けた。
「ラブマシーンさん、質問に答えて下さい」
 箱庭とは此処(ここ)か、OZ(ここ)か。

 はこにわはここに