夜の瀬


「ねぇ、笑ってよ」
 唐突に言われて佳主馬は困惑した。
 前々から健二は唐突に願望を漏らす所のある人だと思っていた。天才故のよくわからない思考回路をしているのだろう彼の発言に至る経緯を、佳主馬が追跡できたことは余りない。他人なのだから当然だろう。そこで理解を諦めるほど、佳主馬の彼に対する執着は、底が浅いモノではなかったけれど。とは言え、こうだろう、とおおよそ当たりをつけて、それで満足するしかない。恋人と言えど他人の限界である。
 それにしても今度のはまた突拍子がなかった。どうしちゃったんだろうこの人は。
「無理だし」
「えー」
「笑えって言われて『はいそうですか』と笑える訳ないだろ」
 調整を再開するが、背中に感じる視線が恨みがましい。明かり取りの窓から入る羽虫と同じくらい気に触る。ただし好意的な方の意味で。
 佳主馬は溜息を吐いて、操作を終了してノートパソコンを閉じると背後を向く。
「ねぇ、なんでそんな事を」
「だって、僕、佳主馬くんの笑顔が好きなんだ」
「え」
 頬に熱が灯る。睦言めいた発言に心臓が鷲掴まれた。
「あ」
 低く声を漏らして、佳主馬の頬に手を当ててぐいと向き合わせる。
(顔近い!)
 健二はにこりと笑み崩れる。夕沈みの納戸に、健二の白じらとした頬はよく映えて、いっそう魅力的に目に映った。
「この顔もいいね」
 心臓が寿命を縮めるべく脈を早める。
「健二さん…」
 吐息に交じらせ、波立つ声で名を呼ぶと、健二も同様に名を呼んだ。佳主馬くん、
「笑ってよ」
 無理だ、笑える訳がない。
 固まった頬を無理に持ち上げようとしても、心音に邪魔されて引き攣るだけだった。熱された表情筋は職務放棄したようだ。頭の中が鼓動と熱で一杯で、他に何も考えられない。
 至近距離の笑顔だけで、佳主馬の神経系統はぐずぐずに駄目になっていた。
(役立たずの、俺の中身)
 健二は柔らかく目尻を撓めて、待っている。逆らおうという気すら起こさせない。佳主馬は微かに震える、熱のこもった声で尋ねた。
「もし、笑わなかったら……?」
「ここを出て、夏希先輩の所に行くよ。先輩なら、笑ってくれるだろうし」
 先輩ってさ、いつも笑っているイメージがない? それに、なんだかんだで頼めばちゃんと笑ってくれそうだし。
 恋い慕う人はそう続けて、顔色一つ変えない。
 耳を疑った。しかし健二の笑顔は変わらない。どこか佳主馬をポーカーフェイスだと疑っている節のある健二だが、この人こそいつもニュートラルだ。
 ざっと背筋が冷えた。血の気が下がる。
 健二はよく言っていた。夏希先輩と、佳主馬くんはやっぱり似ているね。
(嫌だ、そんなの)
 よく似た造形の従姉妹に、自分を代替させるなんて。それともやはり、自分の方が代替物なのだろうか?
 震える唇を、無理矢理持ち上げる。ぎこちなく笑みを浮かべようとして――失敗した。
 恋人にそんな事を言われて、笑える訳がなかった。
 顔面蒼白で怯えるしかできない佳主馬を見て、うっとりと健二は目を細める。
 その罪を知らない唇がゆっくりと開いて、溢した。
「その顔も好き」
「な、」
「でも笑ってくれないとやだよ」
 ねぇ佳主馬くん、笑って?
 ひたひたと冷える夜が、佳主馬の全身にまとわりつく。真夏だというのに、隙間から忍び入る夜で納戸の中は季節の割に温度が低い。
 田舎の夜に身を馴染ませて、健二が命令する。夜そのもののような清冽な空気で佳主馬を追い詰める。
 かたかたと痙攣するのは夜風が冷たい所為だけではない。けれど動けなかった。
 健二の表皮から笑顔が滑り落ちる。悩ましげに眉を寄せて、
「仕方ないなぁ」
(嫌だ、行かないで、俺を嫌いにならないで、健二さん!)
 感情を感じさせないニュートラルな声でごちた健二は、強引に目を合わせ再度微笑む。
「佳主馬くん」
 その顔が近づいて、
「あいしてるよ」
 ――意味が脳に届いたのは、弓なりに撓んだ唇に、唇を塞がれてからだった。
 なすすべ無く開いた口内を好き勝手されながら、じんわりと意味が浸透する。きっちり三拍掛かってようよう愛の告白だと認識した瞬間、凍った心に灯が灯った。熱が上がる。視界が滲む。つんと先端が尖った唇は、今はほどよく開いて佳主馬の中身を丸呑みにしようとしていた。逆らわずに全てを差し出す。氷塊が、怯懦が、濡れた瘧が全て溶かされていく。
 冷えた褐色の肌に、熱い透明な血潮が噴き出した。
 どろどろに溶かすようなキスに、全身が崩れてしまいそうだった。もう心は、とっくに溶けて崩れて差し出して爛れてしまったけれど。
(何もわからなくていい、とすら思えてしまう)
(でも)
(どうしてそう言うのがあんたなんだろう)
 いつもいつだって彼の笑顔を恋うているのは佳主馬なのに。
 うっとりとキスに溺れて、息が苦しくなり、全身が砕け散る頃、漸く健二が唇を離す。
 健二の所為で役立たずになった、佳主馬の中身を丸呑みにした健二は嬉しそうに口を開く。もう一切余計なことを考えられない佳主馬を、至近距離で捉えて、健二は満足げに漏らした。
「やっと笑った」
 恍惚とした表情は、それでも確かに佳主馬の大好きな笑顔の一部だ。
 ――遠くの方で、微かに宴会のざわめきが響いていた。





薄暗い。